羞恥アダルト
大人になるって、どういうことなんでしょうか。
皆さんは、自分のことを「大人」だと思いますか?
大人の線引きって誰しもが考えたことがあると思います。しかしその感覚は人によって千差万別で、成人したら、もしくは経済的に独立したらなど、一概に線引きできるものではありませんよね。
しかし先日、「あ、これが大人になるってことなのか」と実感した出来事があったんですね。
それは、夏の暑さうだる大阪でのことでした。
僕は社交ダンス部に所属しており、その大会で大阪に出向いていたんですね。
まあちょっとした観光も兼ねていたので、動きやすく、快適な格好は不可欠なわけで。
そこで関西となればさぞ暑かろうと思い、当たり前のように僕はタンクトップを着ていったんですよ。
ここ数年間で「ノースリーバー」としての立ち位置を確立した僕にとってそれは至極当然の選択であり、一片の疑いの余地もありませんでした。
しかしいざ現地に着いてみるとですね、大阪ってやっぱ都会なんすよ。
で、都会ってことは人も多くてですね、まあ人が多ければおしゃれな人なんかも多くなっているわけで…。
まあ、なんつーか、そう、
恥ずかしかったんすよ、タンクトップ。
タンクトップを着るようになって7年目くらいなんでしょうかね。僕、初めてっすよ。タンクトップに恥じらいを感じたの。
その時、恥じましたよ。タンクトップではなくて、タンクトップを恥じてしまった自分をね。
今まで寝食共にし、いつも俺を包み込んできてくれたタンクトップを恥じるだなんて。
でも思ったんです。親と手を繋いで歩くことが恥ずかしくなったあの時のように。
これが、大人になるってことなのか、と。
親離れ同様、僕もノースリーブ別れが必要な時期に差し掛かったのだと、そう感じました。
皆さんにも、大人になってしまったんだなあという出来事、ありませんか?
振り返ってみると、子どもの頃にはできていたのに、今はできなくなってしまったことってたくさんありませんか?
僕が1番できなくなったなーてのは、「想像すること」ですね。
昔は暇な時、自作漫画のストーリーだとかキャラクターを想像するだけでいくらでも時間を潰せたし、退屈することはありませんでした。
さらに昔になれば右手と左手を戦わせたり、学校に乗りこむテロリストを撃退する妄想するだけで授業は終わってたし、退屈なドライブも窓から見える屋根や電柱を右手に飛び移らせるだけでどこまでも走り行くことができました。
今では暇な時、スマホとか本といった媒体なしでは昔のように時を飛ばすことができなくなってしまいました。
思い返してみると、ほんとに子ども時代の想像力って偉大だったなと。
しょーもない男子大学生となってしまった今想像できることといったらどうやったらモテるかとエロいことくらいですからね。
悲しいことに、大人になるってのは、何かしらの自由さを失うことなのかもしれません。
服装の自由さ、発想の自由さ、社会的な自由さ。
そういった自由さを失い、社会の背景のようになっていくことが、もしかしたら「大人になる」ということになるのではないでしょうか。
また、多くの大人が子どもの頃を焦がれるのは、こうした自由を再び謳歌したいからではないかとも思いました。
実際、大人になったとしても、子どもらしい自由さを、何かしら持ち続けていきたいものですね。
だから僕はこれからも「ノースリーバー」として生き続けます。
たとえ社会人になり、東京にいってしまったとしてもね。
まあまず社会人になれるかどうかってとこが当面の課題です。よろしくお願いします。